日本絵画の画材と有名な日本画家について解説 

はじめに

日本絵画は同じ色を手に入れるのが難しい岩絵具や絵を描く支持体となる絵絹などユニークな道具を使います。

日本絵画は油絵と違い、安定した発色が難しく、銀截金のように時間と共に変化する変色するものがあります。

日本には、古びていくものや滅びていくものの儚い美を愛でる美意識が関係しているのでしょう。

岩絵具は鉱物から作られます。貝殻を粉砕して白色の胡粉が、土を原料として黄土が作られます。

天然の鉱石からつくる岩絵具は、不純物の成分や、手精製の技術により、でき上がる色も変わるのです。

現代の人工的な絵具はチュープから出せばいつでも同じ色が手に入る便利さがあります。日本画の絵具はまったく同じ色が常に手に入るわけでは無いのです。

日本絵画を描く絵絹も時代や地域により特徴があります。現代の製糸製織技術による絵絹と在来製糸製織技術の絵絹では、平滑さ、吸収性、柔軟性が異なります。

葛飾北斎


葛飾北斎

Ushibori in the Hitachi

生没年1760~ 1849 年

出身地江戸 (現在の東京都)

葛飾北斎の「富嶽三十六景」は2Dでの構図の美しさを持ちます。それは現在のアニメ「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」にも引き継がれています。

葛飾北斎は、19歳で浮世絵師·勝川春章に入門し、その翌年「春朗」の名前で浮世絵界にデビューします。

黄表紙の挿絵などを中心に、美人画や風俗画の仕事をこなします。

35歳で勝川派を離れ、「俵屋宗理」と名乗って狂

歌絵本の挿絵や摺物などを制作。

39歳で「北斎辰政」と名乗って勝川派からの独立を宣言。

40代後半には1400点もの挿絵を手がけ、50歳を過ぎたころには多くの弟子を抱えるようになります。

53歳に弟子のために描いた絵手本の「北斎漫画」で日の目を浴び、「富嶽三十六景」が空前のヒット作となったのは71歳のときでした。

90歳で死去するまで肉筆画に注力しました。

1823年に長崎の出島に上陸したシーボルトが、在日期間中に北斎の肉筆画を入手し、オランダに持ち帰ったという記録があります。

伊藤若冲

Nandina and Rooster

生没年1716~1800年

出身地山城国 (現在の京都府)

伊藤若沖は、京都で代々続く青物問屋 「桝屋」の長男に生まれました。

画業に専念したのは、家督を弟に譲った40歳からです。

他のものには興味を示さず絵に没頭し、京都の相国寺の僧·大典顕常のもとに通って禅の教えや寺に伝わる中国画を学んだとも伝えられています。

宋や元、明の時代の中国画の模写から写生の重要性を悟ります。庭に数十羽もの鶏を放って観察し描きました。植物や動物にも、その対象を広げていきました。

42歳ごろからは、濃密な色彩で対象を細密に描いた「動植採絵」の制作を開始。以降、墨を自在に操った水墨画、モザイク画のような桝目描きによる表現など、さまざまな技法で個性的な作品を残します。

その作品の多彩さは、流一派に属さなかったこと、中国画に狩野派、琳派、を学び、絵に対する探究心のなせる技といえます。

高橋由一

Bijin Oiran

正式な西洋画教育を受けたことがなかった高橋由一の油絵は、 和魂洋才な画風をしています。

由一は西洋画の道具すら見たことが無かったので画材から模索し研究しました。

その後、文久元年(1861)にイギリスの『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』誌の特派員兼漫画家として来日し、多くの日本の風俗をスケッチしていたワーグマンに油絵を習いました。

由一は1873年に画塾を開き、人々に油絵を広めるための展覧会を開催します。

しかし1882年ごろから日本画の復興を訴える声が大きくなり、油絵(洋画) は危機に直面しました。

画塾を閉めた由一は美術館建設の資金集めのために展覧会を開きます。

公共の土木工事の記録画を油絵で描く仕事を引き受けるなど、油絵を続けました。

油絵の迫真的かつ写実的な描写は「写真に勝る」と信じた由一は、油絵一筋に生き、多くの肖像画や身近にあふれるものを描いて本格的な技法を追求し続けました。

岩絵具

岩絵具とは、鉱石を粉砕してつくった顔料のことです。

顔科とは水に溶けない性質をもった色の素材を指し、鉱物を用いた岩絵具のほかには、貝殻を粉砕してつくる白色の胡粉や、天然の土を原料とする黄土などがあります。

岩絵具は色だけでなくそれぞれの絵具のもつ質感の違いがさまざまな表現を生み出します。そこが日本画と油絵具や水彩絵具を使った洋画との大きな違いのひとつでしょう。

天然の鉱石からつくる岩絵具は、含まれる不純物

や成分、職人の手精製によって、でき上がる色も変わってきます。

現代の絵具は、チュープから出せばいつでも誰でも同じ色が手に入る便利さがあります。一方で日本画の絵具は同じ色が常に手に入るわけではありません。 

岩絵具は同じ鉱石でも個体差によって色味が違ってしまいます。その微妙な不均一さこそが岩絵具の特色でしょう。

現在ではガラス質の原科を粉砕してつくる人造の新岩絵具もあるため、天然の鉱物からつくられる本来の岩絵具は、天然岩絵具と呼ばれています。

絵絹

絵絹の質や幅には時代や地域による特徴があります。

近年の美術史研究においては制作年代の指標です。

鎌倉時代には目が均一で強いもの、室町時代には目が粗いものへと変化していきます。江戸時代の絵絹は精練された目の詰んだものとなりました。

現代の製糸製織技術による絵絹と在来製糸製織技術の絵絹で明らかに異なるのは、平滑さ、吸収性、柔軟性といえます。

現代の絵組の生系が「丸め糸」という丸い形状をしているのに対し、在来技法による絵絹の生糸は「平め糸」という平らな形状です。

また、在来技法による絵絹は繊維の集束が緩く生絹の状態でもやわらかく吸水性をもちました。

糸が平らで表面が平滑であるということは、筆の接触面積が大きく、墨が伝わりやすい構造です。

現代の丸め系は凹凸が大きいため、

筆運びが悪く感じられます。

裏彩色

裏彩色は絹本制作の最も特徴的なテクニックのひとつです。絹本着色は支持体として絹を用い,その上に岩絵の具や染料で着色することです。

裏彩色は絹地の表裏を使います。絹絵の裏からも彩色を加え、その絹表への現れ方を生かします。その上に線描きや彩色を加えて完成させる技法です。

裏彩色は仏画の表現から生まれ、ほかの絵画様式や後世の画家たちに影響をおよぼしました。

絹本が描く時裏側が透けているということと関係があり、表具、 裏打ちによって変化する色、 明暗まで計算に入れた描画が求められます。

漢字では心と書いてウラと読むこともあり、日本で裏とは内面や精神をあらわす言葉としても用いられます。裏彩色の技法には絵画を精神的により深いものにしようという思いが込められているのです。

裏彩色は平安時代から鎌倉時代にかけて描かれた多くの仏画に用いられました。

江戸時代には、伊藤 若冲が裏彩色の技法を駆使して優れた作品を生み出しています。

平筆

筆の起源は古く、紀元前三世紀の中国ではすでに現在のような獣毛を用いた筆が存在していたといわれています。

日本に筆がもたらされたのは飛鳥時代でした。

その後、多種多様に変化しながら、今日に至るまで発展し続けてきたのです。

画家にとってよい線が引けるということは筆職人と一致協力し、画家の想いを画面に直に伝えられるような筆をつくってもらうことが必要です。

筆は画家の思考回路と画面とをつなぐために体の一部となって機能する重要な道具なのです。

現在使われている筆は主に獣毛を用いており、羊やタヌキ、イタチや猫などの動物の毛を束ねて軸をつけたものです。

日本画で使用される毛の特性や筆先の大きさなどによって線描き用、彩色用、ぼかし用などがあり、表現に合わせて使い分けています。

大別すると骨描筆や附立筆、面相筆や隈取筆などの丸筆、絵刷毛、空刷毛など、広い面に用いる刷毛や平筆、丸筆を何本も連ねて刷毛のようにした連筆などがあります。

截金

Kujaku Myoo


 截金とは、金や銀の箔を細くきりこれを貼りつけて図様や文様をあらわす技法です。

幅わずか0.01ミリにもなる非常に細い糸状の箔をきり出して文様をつくり出す、繊細で華麗な装飾芸術です。

日本には飛鳥時代の仏教伝来とともに、中国からその技法がもたらされ、仏像や仏画のなかに用いられました。

日本ではこれに芸術性をもたせ、世界に類をみない截金文化を開花させました。

日本には、六世紀頃に中国から仏教が伝来します。それにともなって仏像中仏画が制作され、それらを荘厳するために截金の技術と技法が発達しました。

截金は、平安時代から鎌倉時代の初めに優れた感性と美意識によって彩色との調和のとれた荘厳性が完成をみます。

技術的にさらなる発展を遂げた鎌倉期の截金にはは、技巧を凝らした精緻なものが多くなります。

一部の職人たちに受け継がれた裁金は、現代になって再び注目を浴び、新たな芸術の域にまで高められました。

古色 

模写をする画家にとって難しい問題のひとつが、色彩の復元です。

科学分析によって使用された絵具が推定できたとしても、岩絵具の元になる鉱石の色や、混色する時の配合比によって、色幅は無限であり、色の特定が困難だからです。

変色や褪色だけでなく、爆煙で黒化した仏画では、色の面影を見出すことすら難しい現状から、制作当初の色彩を想定しなくてはなりません。

復元の際の彩色を安っぽく感じる違和感は、制作当初と鑑賞する環境が大きく異なることも影響していると考えられます。

日本人は、昔から古色を愛するところがあらります。

茶道や能などの枯淡な美意識に象徴されるように、古びていくものや滅びていくものの儚い美

しさが愛されてきました。

日本人は、冷たく静かな輝きをもった銀を絵画に用いてきました。銀截金は経年変化によって黒色化していきます。銀の黒色化により絵の印象も変化していきます。

日本絵画の特徴


日本絵画を知るには実物を観るのが一番良いです。

裏彩色された作品など印刷では再現できない色があるからです。

それぞれの作品のサイズ感も本では分かりにくいでしょう。襖絵は空間も含めて作品となっています。空間や光まで含めて体感しながらいろんな位置から鑑賞して楽しみましょう。

人物画にしても小さな人形サイズからほば等身大のものまであります。

絵師特有の「生理的曲線」から作者の息遣いに思いを馳せるのも良いでしょう。

日本絵画には、土器に代表されるような縄文的な美と弥生的な美が存在しています。縄文的な荒々しい野生的な美しさと弥生的な簡素な美しさが共存しているのです。


日本絵画を知るには実物を観るのが一番良いです。

裏彩色された作品など印刷では再現できない色があるからです。

それぞれの作品のサイズ感も本では分かりにくいでしょう。襖絵は空間も含めて作品となっています。空間や光まで含めて体感しながらいろんな位置から鑑賞して楽しみましょう。

人物画にしても小さな人形サイズからほば等身大のものまであります。

絵師特有の「生理的曲線」から作者の息遣いに思いを馳せるのも良いでしょう。

日本絵画には、土器に代表されるような縄文的な美と弥生的な美が存在しています。縄文的な荒々しい野生的な美しさと弥生的な簡素な美しさが共存しているのです。

まとめ

Shinobazu Pond

葛飾北斎は、19歳で浮世絵師·勝川春章に入門します。90歳で死去するまで絵を描き続けました。

伊藤若沖は、40歳から画業に専念しました。中国画の模写から写生の重要性を悟ります。庭に放った鶏や植物を観察して描きました。

裏彩色の技法を駆使して優れた作品を生み出しました。裏彩色は平安時代から鎌倉時代にかけて描かれた多くの仏画に用いられました。時を経た江戸時代において若冲は裏彩色という絹地の裏側から色塗りする技法を用いました。

高橋由一は正式な西洋画教育を受けたことがなかったのです。

西洋画の道具すら見たことが無かったので画材から模索し研究しました。

その後、ワーグマンに油絵を習いました。

由一は画塾を開き、人々に油絵を広めるための展覧会を開催します。

やがて日本画の復興を訴える声が大きくなり、油絵(洋画) は危機に直面しましたが油絵に尽力し続けました。

春画についてはこちら。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です