フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent Willem van Gogh

はじめに

ゴッホについて書いていこうと思います。ゴッホは日本の浮世絵や印象派に影響を受けて技術を吸収し自身の作品を作成しています。

ゴッホ浮世絵を見て日本は色鮮やかな光に溢れた南国だと思い込みます。日本に理想を見出し、自身にとっての日本である南仏のアルルに向かいます。

アルルで芸術家の共同体を作って生きることを目的に、黄色い家でゴッホの誘いを受け入れてくれたゴーギャンを待ちながら作品を作り続けました。

ついにやって来たゴーギャンと散歩をしたり、絵を描いたり、夢のような目的が、ついに現実に叶ったような日々を過ごします。

しかし、ゴッホとゴーギャンは口論になることが増えていき、たった2カ月でゴーギャンが去り、ゴッホの夢は砕け散りました。

ゴッホは左耳を自ら切り落とす行為に出ます。サン·レミの精神病療養所へ入院することになりますが、苦悩を抱えながらも絵を描き続けます。絵を描くという行為を貫き通します。

ひまわり

sunflower

1888年35歳、南フランスのアルルへ移住したゴッホは、やがてある夢を思い描くようになります。

「この地(アルル)に、画家仲間を呼び、芸術家の共同体(ユートピア)を作りたい」

ゴッホが敬愛する画家ポール・ゴーギャンを招待に応じます。

喜んだゴッホは、共同生活の場となるアトリエを12枚のひまわりの絵で装飾する計画を思いつきます。

ゴッホはゴーギャンが到着する前に、自信作を作ろうとテオにお金を催促してたくさんの絵を描きました。

ひまわりは、ゴッホが「共同体」の象徴として選んだ花です。向日葵は明るい南フランス(南仏)の太陽、ひいてはユートピアの象徴であったと言われています。

ゴッホはキリストの十二使徒ように12人の仲間が「黄色い家」に集うことを夢見ていました。1888年夏にひまわりの制作に取り組み始めました。

花瓶に挿された向日葵は7点が制作されたことが広く認められています。このうち6点が現存しています。

7点とも構図はほぼ同様ですが、向日葵の本数は3本、5本、12本、15本と異なっています。

ゴーガンが来たときにはひまわりの季節が過ぎてしまったために、当初の予定に対し、実際にひまわりを見て描きあげられたのは4枚だけということです。

ゴッホがアルルで描いたひまわりのうち二枚がその後日本へやってきます。その記事についてはこちら

星月夜

The starry night
1889年6月、油彩/カンヴァス 73.7×92.1cm ニューヨーク近代美術像
永久コレクション
《星月夜》

  ゴッホは実際に見える景色を内面的な表現に変換して描く、フォーヴィズムや表現主義に大きな影響を与えました。
表現主義にはムンクの叫びのように人物や風景を歪めた表現があります。しかしゴッホ自身は実際に見たものしか描けなかったといわれています。

  炎のような糸杉も、大きく輝く星々や月も、渦巻く空も、ゴッホに見えた実際の風景だったと考えられます。

  ゴッホは1889年の5月から1年間、フランスのサン=レミにあるサン・ポール・ド・モーゾール修道院で入院生活を送りました。

  アルルで唯一の理解者だった郵便係ルーラン夫妻が転勤、経済的に支援してくれていた弟テオの結婚に精神的なダメージがあったと考えられます。

  近隣住民から再入院を嘆願され、ゴッホは自ら入院しました。現実の世界が歪んで見えるほどの不安や苦悩があったと考えられます。

  そこで精神治療のために療養しながら、修道院の一室の窓から見える村の風景を描いたといわれているのが 星月夜です。 

ゴッホの耳

 ゴッホはゴーギャンを待ちながら「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの代表作を作成しました。

 ゴーギャンは予定より遅れて10月に黄色い家に到着しました。

 ひまわりの季節は過ぎていましたが自作のひまわりを模写するゴッホをモデルに、ひまわりを見て絵を描くゴッホをゴーギャンは描いています。

 同居生活が始まると、ゴッホとゴーギャンはともに散歩して絵を描いたり、ぶどう畑を見に行ったりして良質な関係で楽しく過ごしていました。

 しかし強烈な個性を持った2人の関係は価値観が合わないために徐々に悪化していきます。

 1888年12月、 2人は口論となりゴーギャンはその喧嘩が原因で黄色い家を出て行きます。

 その1週間後、ゴッホは左耳を剃刀で切り落としました。

 ゴッホは切り落とした耳を「この品を大事にとっておいてくれ」と近所に住む娼婦に送りつけます。

 この事件により、ゴッホはサン·レミの精神病療養所に入院することになりました。その後、発作が頻繁に起こるようになりました。

ゴッホの日本

ゴッホはアントワープに住んでいた1885年に日本の浮世絵に多大な影響を受けました。

1886年には、パリで画商として活躍していた弟テオの下宿に転がり込みます。

ゴッホは弟のテオのお金で、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めコレクションします。

1887年には渓斎英泉の(雲龍打掛の花魁)をはじめ

、浮世絵を油彩で模写した作品をいくつか制作しています。

印象派展が開かれたパリで、ゴッホは印象派の筆触分割や新印象派の点描技法をわずか一年あまりで吸収しました。

オランダ時代の「ハーグ派」という写実様式のくすんだ色合いの暗さとは正反対の色鮮やかな画風を確立していきました。

ゴッホは、海軍武官として訪日経験のある作家ピエール・ロティの小説『お菊さん』に影響を受けて、アルルの少女をモデルに「ラ・ムスメ」を作成しています。

色鮮やかな浮世絵はゴッホに吸収され、青と黄色の補色効果など、その色使いに生かされています。

ゴッホは南仏には「日本の光」があるに違いないと思い込みました。

ゴッホがアルルに向かったのは、思い描いた理想郷である日本を求めてのことでした。

まとめ

La sedia di Gauguin

ゴッホは日本の浮世絵に影響を受けて絵の具から出したままの鮮やか色合いや補色の効果を使い絵を描きました。

もっと光のあるところ。南国の光のあるところ。浮世絵のある日本のような鮮やかな光のある場所を目指します。

芸術家は一人でいるべきじゃない。一緒に集まり、互いを補完しあって暮らすべきだ。キリストの十二使徒のようにアルルの黄色い家に集い共同生活をしようと夢を見ます。芸術家仲間に手紙を出して誘うが応えてくれたのはゴーギャンだけでした。

ゴッホはテオのお金でゴーギャンの為に家具を買い揃えます。

ゴーギャンはテオに一月に250フランを仕送りする、完成した絵は買い取る、と説得されてアルル行きに応じます。

視覚に得た情報を見たままを描くゴッホと、見たものにより内面に生まれた印象をもとに描くゴーギャンは、お互いに自分の技法を主張し、折り合うことはありませんでした。

アルルで過ごしたいゴッホと南国へ行きたいゴーギャン、2人の意見は噛み合いません。

ゴッホはゴーギャンが去ると左耳を自ら切り落としました。サン·レミの精神病療養所へ入院することになりました。

その後、苦悩を抱きながら描いた絵はゴーギャンを待ちながら描いた絵とは違い歪んだり渦巻いたりしています。表現主義ではなく実際に歪んで渦巻く世界をその目に映しながら、ゴッホは絵を描きました。

印象派についてはこちら。



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