もくじ
はじめに
日本にやって来たゴッホのひまわりについて書いていきます。
初めて日本にやって来たゴッホのひまわりは、ゴッホがアルルで描いた二枚目のひまわりです。
ひまわり2は日本に来てから、関東大震災、経済恐慌、そして第二次世界大戦に翻弄されました。
武者小路実篤等の望んだ、作家の作った本物の作品を見せるための白樺美術館に飾られる予定だったひまわり2は、第二次世界大戦中の空襲で焼けてしまいました。
日本に現存するゴッホの描いた本物のひまわりはアルルで描かれた5枚目のひまわりです。
ひまわり5は1987年に日本企業の安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)がロンドンのクリスティーズで 2475万ポンド約58億円(当時の為替換算)で落札しました。
約58億円という落札額は当時、一枚の絵の取引としては最高額でした。
現在の絵画価格の高騰は〈ひまわり5〉がきっかけとなって起こりました。
ゴッホのひまわりが日本で焼失した経緯
ゴッホがアルルで描いた2枚目のひまわりが消失してしまった要因の一つは絵が重たくてとっさに持ち出せなかったということがあります。
この大きな絵が非常に重かったのは、額縁とその外側の木箱に原因がありました。
ゴッホは絵を囲むようにオレンジ色に塗った細い木片を四方にぐるりと打ちつけており、絵はその木片とともに金色の額縁に入っていました。
その絵は、更にクスノキの木箱に入れてあり、この箱のせいで、絵は極端に重かったのです。
2番目の要因に関東大震災があります。そこから起きた不況により白樺美術館が建てられず、絵が行き場所を失ってしまいました。
1924年9月1日に関東大震災が起きました。
関東大震災は東京と神奈川·千葉の両県に壊滅的な打撃を受けてしまいます。
日本は震災不況に見舞われ、経済的な閉塞感を抱えたまま昭和に突入します。
山本は将来その構想が復活するまで絵を自宅で預かっておくことになりますが、
白樺美術館構想が復活することはなく、日本は戦争に突入してしまいます。
1927(昭和2)年、金融恐慌が起こり、株式会社山本商店は倒産し、山本は土地と一邸宅を手放すことになりました。
3番目の要因に第二次世界大戦があります。大戦中のアメリカ軍の空襲により、絵は焼けてしまいました。
1939 〜1945年第二次世界大戦が起こりました。
1945年8月5日の夜から6日未明にかけて、米軍は神戸で大規模な空襲を仕掛け、芦屋も約3000戸の住宅が焼け、山本家も全焼してしまいました。
ゴッホのひまわり、日本での値段
ゴッホが描いた5枚目の「ひまわり」は1987年に日本企業の安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)がロンドンのクリスティーズで 2475万ポンド約58億円(当時の為替換算)で落札しました。
約58億円という落札額は当時、国内外で大いに話題となります。一枚の絵の取引としては最高額でした。
現在、絵画は競売での落札価格が一億ドルを突破する時代ですが、絵画価格の高騰は〈ひまわり5〉がきっかけとなって起こりました。
ゴッホが描いた2番目の作品とされる5輪のひまわりは、1920年(大正9年)に実業家の山本顧禰太が、スイスで7万フラン(当時の為替レートで約2万円、現在の価格で約2億円)で購入しました。
日本に到着したのはみ1920年の12月で、それが日本にやって来た初めのひまわりです。
しかし、かつて日本にあったゴッホの描いた本物のひまわりは太平洋戦争中の空襲により消失してしまいました。
ゴッホのひまわりが日本で展示してある場所
ゴッホの描いた本物のひまわりを日本で見ることが出来ます。それはゴッホがアルルで描いた5枚目のひまわりです。
ひまわり5の面白いところは、茎が葉の真ん中を突き抜けて伸びているところです。
また、上端に別の布が貼られ、周辺部全体に加筆の跡があるという点です。
拡張と加筆をしたのはエミール·シュフネッケルであるという説が有力です。
古典的な絵画の訓練を受けてきたシュフネッケルは、ひまわりが上端ギリギリに描かれており、上にスペースがないのが気に入ってなかったようです。
たとえばひまわり4やひまわり7の花は絵の上端ギリギリに描かれています。
画面の端ギリギリまで絵を描くゴッホの絵の非伝統的な空間感覚にがまんができなかったための「修正」と考えられています。
ひまわり5は、JR新宿駅西口より徒歩5分の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で見ることが出来ます。
かつて日本にあったゴッホの描いた本物のひまわりは太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日
アメリカ軍の空襲(阪神大空襲)を受けて焼失しました。その絵はゴッホがアルルで描いた2枚目のひまわり。ひまわり2が展示されてきた経過を説明します。
ひまわり2は1920年の12月に日本にやって来ます。
1921年(大正10年) 三月五日から一三日まで、京橋の星製薬ビルの四階で「白樺美術館第一回展覧会」が展覧会が行われました。1920年前後の同ビルでは、多くの芸術展覧会が開かれており、当時の公開においても「ファン·ゴッホのひまわり」が評判の作品として扱われました。
1924年(大正13年)、大阪で通算3回目の展覧会が開かれます。
1945年(昭和20年)8月6日アメリカ軍の空襲(阪神大空襲)を受けて焼失しました。
2002年(平成14年)に兵庫県立美術館で開催された「ゴッホ展」において「芦屋のひまわり」実物大の復元絵画が展示されます。
2014年(平成26年)10月1日から大塚国際美術館が原寸大の陶板で「芦屋のひまわり」を再現し展示されています。
武者小路実篤記念館に連絡を取り、特別閲覧の許可をもらうことがでれば白樺社が発行した画集を見ることが出来るかもしれません。
それは白樺社が発行した画集で、白樺美術館のために入手した四枚の絵の複製画を一組としたものです。ゴッホの(向日葵)そしてセザンヌの(自画像)(浴する男達)と(風景)各々の用紙サイズは38×29・5cmです。
ゴッホのひまわりが日本に初めて来た経緯
1910(明治43)年秋、武者小路は「白樺」でロダン特集を組み、ロダンとの間に書簡による直接ルートがひらけました。
1911年末にロダンから、展覧会に展示する小さなブロンズ作品三点が送られてきました。
作家本人から本物の作品に白樺派のメンバーは、実際の作品を見ることの重要さを再確認します。
1917(大正6)年10月号「白樺」白樺美術館構想が発表されます。作家本人の作った本物の作品を買う為に、一口一円で会員を募ったり、募金を募るためのコンサートなども行われました。
基金は7000円ほど集まりました。
大阪の読者だった相馬政之助君夫婦が音楽の修業の為巴里にゆくことになり、白樺美術館の為に画をさがしてくれる役を果たしました。
相馬が写真を送ってくれ、値段をかいて来てくれます。その内にゴッホの画が二つあり、両方とも二万円位でした。
白樺ではとても買えないので、その時分新しき村に毎月百円づつ寄附してくれていた山本顧禰太が購入することになりました。
まとめ
日本でゴッホが描いた本物のひまわりを見るには東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館に行きましょう。
JR新宿駅西口より徒歩5分の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館にあります。
ゴッホがアルルで描いた二枚目のひまわりら、今はこの世に存在しません。しかし複製画を鑑賞することは可能です。
ひまわり2、「芦屋のひまわり」と呼ばれている絵は大塚国際美術館が原寸大の陶板で再現されています。
武者小路実篤記念館から特別閲覧の許可をもらうことがでれば白樺社が発行した複製画を見ることが出来るかもしれません。
白樺社が発行した四枚の絵の複製画は、白樺美術館のために入手した四枚の絵の複製画です。ゴッホの(向日葵)セザンヌの(自画像)(浴する男達)と(風景)の4点で、用紙サイズは38×29・5cmです。
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