もくじ
はじめに
印象派とは、それまでの絵画スタイルにはなかった新しい技法で絵を描いた画家達です。
筆触分割は絵の具を混ぜないことで明るい色で画面を彩りました。配置した筆触が見る人の網膜で色が混ざって見えるような技法です。写実主義や、バルビゾン派の丁寧に仕上げる画家たちの作品には無かった技法です。
印象派以前の画家は歴史的場面や聖書の一場面を描きましたが、印象派の画家は日常にある光景や人々の暮らしを描きました。その多くが戸外で絵を描きました。
伝統的な技術で描く画家がサロンや展覧会に絵を出展したのに対して、印象派の画家たちは自分達のグループで展覧会を開きました。そのような挑戦は、その後の絵の発表という場に変化をもたらしました。
印象派の生みの親となったのはマネで、古典的な主題を新しい技法で描きました。またパリに生きる市民の姿を描きました。マネ自身は印象派展には一度も参加していませんが、印象派の画家たちに大きな影響を与えました。
印象派とは
印象派とは、美術史に新時代をもたらした19世紀後半のフランスで起こった絵画運動です。
名称は、モネが1874年に行われたグループ展に出品した《印象、日の出》に由来します。
1860年代、印象派の画家たちは、 まったく新しい方法で絵を描きはじめました。それは、美術界を支配していた価値観への挑戦でした。
印象派とされるのは、1874年から1886年にかけて8回のグループ展を行った画家たちです。
絵のスタイルや描いたものは画家によって様々ですが、近代的な主題を自分が感じたままに描きたいという思いは同じでした。
バルビゾン派の画家と同じように印象派の画家もたちも戸外で絵を描き、現実の世界を目に映るままにとらえようとしました。
印象派を代表する画家たち、クロード·モネ、ピエール=オーギュスト·ルノワール、エドガー·ドガ、カミーユ·ピサロは、 それぞれ自分が関心を持ったものを独自の方法で描いています。
その作品は、印象派の画家たちが興味を持っていたさまざまな主題や形式を見せてくれています。
印象派の画家たち
1874年4月15日、 パリのカピュシーヌ大通り35番地にあった写真家ナダールのアトリエで、展覧会が行われました。
1873年の暮れにルノワールらと結成された芸術家たちのグループ「画家、彫刻家、版画家等の共同出資会社」の展覧会です。
このグループが、後に印象派として知られるようになりました。
参加したのは、クロード・モネ、ポールセザンヌ、エドガー·ドガ、
アルマンギヨーマン、ベルト·モリゾ、 カミーユ·ピサロ、 ピエール=オーギュスト·ルノワール、アルフレッド·シスレーなどです。
このときクロードモネが出品した絵のうちの1枚が「印象、日の出」です。この絵から「印象派」という名称が生まれました。
記事の中で芸術批評家のルイ·ルロワは、「印象、 日の出」を見て、塗りかけの壁紙のほうがあの海の景色よりもよっぽど完成していると評しています。
印象派の画家たちは伝統的絵画を踏まえた上で新しいスタイルで日常の美しさを描きました。
モネ
Claude Monetクロード·モネ(1840-1926)。
モネはフランス生まれ印象派の画家です。
少年期をフランス北西部、ノルマンディー地方の港町ル·アーヴルで育ちました。彼は生涯を通じて、水に映る光と影の絶えず移り変わる姿をとらえようとして多くの作品を描きました、
浮世絵や屏風など日本絵画の影響が顕著で、光の変化を奔放な筆触と混じりけのない色彩で表した風景画を得意としました。
モネは、使う色を限定することはありませんでしたがコントラストをなす青とオレンジ、クリームとバイオレットの組み合わせは、くり返し用いています。
モネはカンヴァスを明るい色で厚めに下塗りし、上に重ねた絵の具の色がいっそう明るく輝くように工夫しています。
ときには鋭いタッチで絵の具を塗り、刻々と移り変わる印象の断片や動きを生み出しました。
全体の印象はスケッチのようで、実体感を感じさせません。
セザンヌ
ポール·セザンヌPaul Cézanne(1839-1906)
ポール·セザンヌは印象派展に1874年の第1回を含めて参加しています。
パリで暮らしはじめた頃には人物画や戸外で制作した風景画を描いていましたが、後には、主に風景画と静物画を描くようになります。
カミーユ·ピサロと親しく、生涯を通じて何度もともに絵を描きました。
風景画と静物画を描くときにセザンヌがこだわったのは、ものの表面、実体感、そして立体感です。
セザンヌの作品、特に後期の作品はスケッチ風に描かれていますが、それでも物にはしっかりとした存在感があり、木、山、果物、布、それぞれがはっきりと描き分けられています。
セザンヌは、岩がつくり出す形や、風景が見せる微妙な色や形に魅了されました。
大胆な形、 色の面、微妙に変化させた色調、はっきりとした筆あとは、セザンヌの風景画にも静物画にも見られる特徴です。
概してセザンヌは、構図の中で物体と空間の関係を追求することに興味を持っていました。
マネ
エドゥアール· マネ Edouard Manet(1832-1883)はフランス生まれ印象派の先駆的画家です。
マネは古典的な主題を新しい手法で描き、絵画の世界を大きく変えました。
パリの高級官僚の家に生まれ、叔父の手ほどきでデッサンを始めました。
近代化されたパリに生きる市民の姿をテーマに作品を描きました。
世紀スペイン絵画から影響を受け、軽快な筆触や明るく平明な描写によって「近代絵画の父」とされています。
マネは印象派のリーダーとみなされ、印象派の画家たちはマネの作品を手本としましたが、マネ自身は8回行われた印象派展には1度も参加していません。
マネは強いコントラストに関心があり、あまり陰影をつけずに平面的な形と構図をつくり上げました。
一方で、静物画も得意で、色彩豊かで幅の広い筆触で細部を生々しく描き出しています。
マネは色彩や明暗の変化を最小限に抑えて深みと形態を表現しました。
絵の具を混ぜずに使われていることが多く、 そのかわりに塗り重ねることで共なる色調や深みを表現しています。
ドガ
エドガー·ドガ Edgar Degas(1834-1917)はフランス生まれの印象派の画家です。
パリの裕福な家に生まれ、画家を志し、1855年に
エコール·デ·ボザール(官立一美術学校)に入学、アングル派のルイ・ラタートに師事しました。
エドガー·ドガは、当時のパリに生きる人々の姿を描くことに特にこだわりました。
エコール·デ·ボザールでの修業を通して、人間の造形に対する興味を一生の間抱くようになります。
ドガは劇場やバレエやオペラを題材にした絵をよく描きましたが、舞台上で行われる公演だけでなく、練習中や舞台裏のようすも描いています。
バレエの練習には、パトロンである貴族男性や、踊り子たちの母親も来ていました。
バレエシューズをはき直す姿、一連の練習の中で複雑なステップをふむ姿、 舞台を終えて疲れきっているところや、休んでいるところなど、優雅とはいえない姿を描くこともありました。
ドガは、肉体と精神のあらゆる努力を通して現れる人体のすばらしさを観察して バレエの美しさをとらえました。
ルノワール
ピエール=オーギュスト·ルノワール Pierre-Auguste Renoir(1841-1919) は印象派の画家です。
1862年から64年頃にかけてパリのエコール·デ·ボザール (アカデミー)で学び、自然主義的な表現と人物の造形に強い興味を持つようになりました。
1869年の夏、ルノワールとモネは、セーヌ川のほとりのラ·グルヌイエールでともに絵を描いて過ごしました。
ルノワールは、人物と服装の装飾的な細部に注目していました。
人物のしぐさやポーズや形が、はっきりわかるように描かれています。
服装に青、 ピンク、オレンジなどの強い色を細部に用いています。細部を大胆に表現して画面の装飾的な効果を高めています。
ルノワールは特に、しま模様やきらめく飾りなど、コントラストのある、当時流行のドレスが気に入っていました。
ルノワールは、薄い青や、人の肌のピンクのように、微妙に異なる色を、 混ぜずにそのままカンヴァスに置いて調和を生み出しています。
ピサロ
カミーユ·ピサロ Camille Pissarro (1830-1903)
印象派の中では最年長で、全部で8回行われた印象派展にすべて参加した唯一のメンバーです。
1860年代の初め頃、 ピサロはパリのアカデミー·スイスという画塾に通い、そこで絵を描いていたクロードモネら印象派の画家たちに出会いました。
ピサロの作風が印象主義的になるにつれて、その筆づかいは大まかになっていきます。
ピサロは、風景画は「場」の本質をとらえなければならない、ということを理解していました。
ピサロの作品には、風景の中で行われる営みを中心的なテーマとしたものが多く、人々のくつろいでいる姿や働いている姿が描かれていて、はるか地平線まで広がる雄大な景色は無視されていることが多いです。
ピサロが風景画を描いたのは、人間と、人間が暮らす世界との関係を描き出すためでした。
ピサロの作品はどれも、何気ない光景を描いていながら、人々の生活の基本となる要素を含んでいます。
アルマン・ギヨーマン
アルマン·ギヨマン Armand Guillaumin (1841- 1927年)は、フランス印象派の画家です。
ギヨマンは、印象派展に6回参加しています。
1861年、アカデミー·シュイスで勉強をはじめ、そこで終生の友となるポールセザンヌ、カミーユ.ピサロと出逢いました。
セザンヌはギヨマンの影響を受け、セザンヌの描いたセーヌ川のはしけの絵を元に、最初のエッチングを試みました。
1863年、ギヨマンは落選展に出品し、後に友人となるフィンセント·ファンゴッホの弟テオがギヨマンの絵を数点購入しました。
新印象派や後期印象派らの画家たちとの交友を経た後、後期から晩年にかけては色彩の鮮明性と装飾性が際立つようになりました。
世界中の美術館が強烈な色彩で知られるギヨマンの絵を世界中の美術館が展示しています。
パリやクルーズ県、プロヴァンス=アルプ=コート·ダジュール地域圏の地中海沿岸に近いアドレドゥ·レストゥレル周辺を描いた風景画を描いています。
ベルト·モリゾ
フランスの画家
ベルト·モリゾ Berthe Morisot (1841-1895年)は、マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀印象派の画家です。
モリゾの画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的です。
1864年、23歳の時に2つの風景画でサロンに初入選します。
ベルトモリゾはその後、1874年第1回印象派展
の前年までサロンに出展し続けました。
1868年、モリゾはエドゥアールマネに出会います。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めます。
基本的にマネが師でありモリゾが弟子であるとされていますが、二人はお互いに影響を与えあいました。
また、モリゾはピエール=オーギュスト·ルノワールやステファヌ·マラルメとの親交もありました。
1874年、モリゾはマネの弟ウジェーヌ·マネと結婚します。
1878年に娘ジュリーを出産し、夫婦仲も良く、モリゾは夫や娘を題材にした作品を多く描いています。
アルフレッド・シスレー
アルフレッド·シスレー Alfred Sisley (1839-1899)はフランス生まれのイギリス人の画家です。
シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれました。
1857年、18歳のときに美術に関心を持ちターナーやコンスタンブル等の作品に触れました。
4年後中断してパリに戻り、マルク=シャルル=ガブリエル·グレールのアトリエで学び、クロード·モネ、ピエール=オーギュスト·ルノワールらと出会います。
彼らは共に、戸外で風景画を制作しました。
このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりありませんでした。
彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられませんでした。
1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場にありました。
当時はとくにルノワフールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品しています。
印象派特徵
印象派に特徴的な、筆触分割(ひっしょくぶんかつ、divided brushstroke)という技法があります。
絵の具を混ぜずに画面上に筆触を隣り合うように配置し、それぞれの色が鑑賞者の網膜上で疑似的に混ざって見えるように表現する方法です。
印象派の画家たちは、写実主義の画家や、バルビゾン派の画家がなしとげたことをふまえて、近代をテーマに絵を描きました。
パリの美術界の中心だったアカデミーと、毎年政府が開催する展覧会 (サロン)では、歴史や神話の一場面を理想化してていねいに描いた作品こそが芸術的であるとされていました。
これに対して印象派の画家たちは、日常生活や、 ある光景の移りゆく印象を苗こうとしました。
印象派の画家は、鉄道、余暇、 ファッション、大通り、風景、カフェなど、近代世界を代表するような場所。アウトサイダー、娼婦、下層階級、 農民など、社会を映し出す人々に目を向け、現実の世界を目に映るままにとらえようとしました。
まとめ
印象派は、画家、彫刻家、版画家等のグループで1873年の暮れに結成されました。参加したのはクロード・モネ、ポールセザンヌ、エドガー·ドガ、 アルマンギヨーマン、ベルト·モリゾ、 カミーユ·ピサロたちです。このときクロード・モネが出品した「印象、日の出」という絵から印象派という名がつけられました。
カミーユ·ピサロは全部で8回行われた印象派展にすべて参加した唯一のメンバーです。
マネは印象派に大きな影響を与えました。印象派の画家たちはマネの作品を手本としましたが、マネ自身は8回行われた印象派展には1度も参加していません。
ベルト·モリゾは、1864年、23歳の時に2つの風景画でサロンに初入選しました。その後10年間サロンに出展し続けました。
1868年、モリゾはエドゥアールマネに出会い、マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務め、2人はお互いに影響を与えあいました。
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